弁護士コラム

政府が勝手に憲法解釈!?集団的自衛権の行使容認に「ちょっと待った!」

政府が勝手に憲法解釈!?集団的自衛権の行使容認に「ちょっと待った!」

1 集団的自衛権とは

ちまたでウワサの集団的自衛権。一体どのような権利か、ご存じですか?

安倍首相は、「弾道ミサイルなどの脅威が容易に国境を乗り越え、瞬時にわが国にやってくる時に、集団的自衛権が必要ないのか」(2013年12月17日)と発言しています。

集団的自衛権とは、自分の国が他の国から武力攻撃を受けた時、これを阻止する権利のことでしょうか?いえいえ違います、それは個別的自衛権といいます。

集団的自衛権とは、自分の国と密接な関係にある国が他の国から武力攻撃を受けた時、一緒になってこれを実力で阻止する権利のことをいいます(参照 国連憲章51条)。

ですから、先の安倍首相の発言に対しては、「わが国」にやってくるなら「別に集団的自衛権は必要ないですよ。」と答えることになります。

2 日本国憲法は集団的自衛権の行使を認めていない

かつて日本は、侵略戦争で日本国民、外国人のたくさんの尊い命を犠牲にしました。その反省から、日本国民は武器を捨てて日本国憲法を作り、その前文で、二度と戦争はしないと国に約束させました。また、全世界の国民が平和のうちに生存する権利を持っていることも国に確認させました。日本国憲法9条は、戦争を放棄するものとして世界から高い評価を受けています。

この憲法9条のもとで、個別的自衛権の行使が許されるかどうかは議論のあるところですが、集団的自衛権の行使は認められないというのが戦後日本の一貫した立場でした。日本が攻撃を受けていないのに、他の国が攻撃を受けたからといって戦争に参加するのは、憲法9条に反すると言わざるをえないのです。

3 解釈改憲は立憲主義の否定

しかし安倍首相は、集団的自衛権の行使を可能にするために憲法解釈を変更する閣議決定を行うと表明しました。そんなことが許されるのでしょうか。

先ほども少し触れましたが、国が権力を使って国民を戦争に動員し、たくさんの人の尊い命を犠牲にし、基本的人権を蹂躙した反省から、日本国憲法は「全世界の国民が平和のうちに生存する権利を持っています」「人が生まれながらにして持っている基本的人権を尊重しなさい」と国民が国家権力に命ずるものです。国家権力を縛る最高法規、それが「憲法」であり(立憲主義)、だからこそ憲法は96条で、憲法改正に高い高いハードルを課しています。国家権力を縛る「憲法」を変えるには、日本国民の総意が必要なのです。

それなのに、国家権力を縛る日本国憲法の解釈を、縛られる側の国家権力である時の政府が、「国の舵取りに不都合なので憲法の読み方を変えます。今までの読み方は全部間違いでした。」と好き勝手に変更して骨抜きにできるとしたら、日本国憲法はもはや「憲法」ではなくなってしまいます。

4 集団的自衛権はどういう時に行使されてきたのか

アメリカによるベトナム戦争は、集団的自衛権行使の名目で行われました。また、NATOは侵略行為をしていないアフガニスタンに対し、集団的自衛権を理由に武力行使しました。いずれの戦争でも、たくさんの人の尊い命が奪われ、たくさんの人が大切な人を失い悲しみに暮れました。集団的自衛権は、戦争を始める口実に使われているというのが実態です。

そのような軍事行動に、日本が集団的自衛権行使の名目で参加すれば、戦後60年かけて築き上げた平和国家日本に対する国際社会からの信頼は、もろくも崩れ去ることでしょう。

5 日本の未来を想像する

集団的自衛権の行使を可能にすることは、他の国と一緒になって戦争ができる国にする、その第一歩です。もしも、戦争できる国になった時、誰が戦争に行くのか想像してみてください。その人は、あなたの夫かもしれません、お父さんかもしれません、子どもかもしれません。誰かにとって、大切な存在です。遠い海の向こうで犠牲になるのは誰なのか想像してみてください。その人たちもまた、誰かにとって大切な存在です。

あなたには、国家のために人の命を奪い、奪われる社会で生きていく覚悟がありますか?他の国と一緒になって戦争ができる国にするということは、そういうことです。

私たちが、朝起きて家族と朝食をとり、学校や仕事に行って社会生活を営み、家に帰って家族と夕食をとりながら他愛ない話をして、あたたかいお風呂で1日の疲れを癒やし、安心して眠る。そして、また朝を迎える。そういった当たり前のことを当たり前にできるのは、平和な社会であることが大前提です。平和のうちに生存し、自分なりの幸福を追求しながら生きていくためには、集団的自衛権行使を容認するという政府の勝手な憲法解釈に待ったをかけなければなりません。みなさん、一緒に声を上げましょう!