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関電裁判に見る原発問題の底流

特集:関電裁判に見る原発問題の底流

村山 京都第一法律事務所は60年安保の直後1961年に生まれ、今年50周年になりました。その後の時代は原発が生まれ、関西電力に対するビラ処分裁判(1969年~1983年)、人権裁判(1971年~1995年)、賃金差別裁判(1989年~1999年)がたたかわれてきた時期と重なります。

日本共産党員とその同調者というだけの理由で人権侵害や賃金差別を行った関電の反共労務管理と、それに対する労働者のたたかいの歴史は、いま起こっている原発問題とも無縁ではないと思います。これらを振り返りながら、我々は次に何をしていけばいいのか探っていきたいと思います。

そこで、裁判の当事者だった高馬(こうま)士郎さんと三木谷英男さんにおいでいただきました。

村山晃弁護士

 

 

 

村山 晃弁護士
 1971年弁護士登録。1年目に関電人権裁判を担当して以来、青春をかけてともにたたかう。賃金差別裁判京都弁護団長を務める。

職場の「色つき」

高馬 私は1955年に会社に入り、いわゆる60年安保組です。職場の尼崎火力は石炭から石油に変わり、火力では一番歴史の古い発電所でした。

その当時から原子力開発が始まりました。火力と原子力は、炉と燃料が違いますがあとの設備はほぼ同じなので、火力の職場から原子力に行くわけです。

ところが私らには声がかからない。労働組合の活動家など「色つき」は行かせないわけです。それがいまの隠蔽体質につながっていると思いますね。

村山 原発に派遣する社員からすでに選別が始まっていたわけですね。三木谷さんは営業所の勤務でしたね。

三木谷 高卒で入り、尼崎営業所が振り出しで、検針を丸3年やりました。なかなか電気の専門の仕事につかせてくれなくて、不満がたまりました。

4年目にようやく現業サービス課に配属になりましたが、雨の日も風の日も電柱登りでした。さまざまな先輩たちにもまれ、そのうちに後輩たちの面倒を見るような立場になり、存在感はあったんですけど……。

村山 三木谷さんがしたかったのはどういう仕事ですか?

三木谷 設計関係などの専門的な仕事につきたいと思っていました。しかし関電は生産工場ではないので、私の肌に合わないと思い始めて、悩んでいました。

それで大学の通信教育を始めました。会社はびっくりしましたが、私は人生を考えようと本腰を入れて学びました。

一方、60年安保で周りは労働運動がかなり盛んになりました。労使関係が厳しくなっていくなかでしたが、労働組合の力もまだ強く、私も労働運動をやり出すことになっていくわけです。

三木谷英男さん

 

 

 

 

 

三木谷英男さん
 関西電力で尼崎営業所、京都上営業所に98年まで勤務。人権裁判、賃金差別裁判の各元原告。現在年金者組合西淀川支部。

電産労組の精神を受け継いで

村山 関電の労働組合が強かったというのは、上部団体としてはいわゆる労使協調路線の同盟に入っていたけれども、職場のなかでは、働く人たちの権利を守ろうという人たちがたくさん生まれていった、ということですか。

三木谷 そうです。私は1957年入所ですが、その頃までに昔の電産(日本電気産業労働組合=電力産業労働者が戦後つくったそれまでの従業員組合の産別結果体)の組合員が切り崩されて関労(関西電力労働組合)に行ってしまい、やがてみんな関労に吸収されました。

しかし、電産の精神やたたたかいの経験をもつ人たちが、関労のなかで権利や労働条件を守る運動の中心となり、かなり広がっていくわけです。64年くらいまでは、そういう人たちが支部や本部の執行部にも選ばれていました。

労働条件が非常に厳しく、たとえば他社にはあった宿直翌日の勤務免除もありませんでした。最低限の社員数で、会社は実働を確保したかったのです。私たちは権利を主張して帰ろうとする。これをめぐっては、職場で団結してずいぶんがんばりました。

高馬 60年頃の労働組合は、職場の人員問題もしっかり要求していました。現在は人員確保を要求することすらしていない状態です。

高馬士郎さん

 

 

 

 

高馬士郎さん
 関西電力で96年まで尼崎東発電所に勤務。ビラ配布処分事件、賃金差別事件各元原告で、関西電力争議団全関西連絡会議議長を務める。現在電力労働運動近畿センター幹事。

監視、孤立化、職場八分…

村山 60年代前半、要求をかかげて前進していった労働組合が、会社によって崩されていくのはいつ頃ですか。

高馬 会社が反共対策のための「労務資料」をつくりはじめたのが62年です。だから60年安保が終わったらすぐに、会社は反共労務対策を始めたわけです。

村山 それが本格化していくのはいつ頃ですか?

高馬 われわれが組合役員から排除されたのは65年でした。

三木谷 その頃から反共労務管理が会社中に広がっていきました。そして私も、会社から白羽の矢を立てられ、監視、孤立化、職場八分がはじまりました。

村山 65年くらいが一つのターニングポイントですね。そして71年にマル秘の労務管理資料(注)が見つかって、異常な人権侵害の実態が社会的にも明るみになっていくわけですね。この資料は、今、問題になっている「メール事件」どころではない、ひどいものでした。

注)会社が特殊対策と称し従業員とその妻の党籍の有無、交友関係など身辺調査の方法や警察からの情報入手、監視者を配置し尾行・盗撮した状況、さらには職場での孤立化・差別等の攻撃手口まで書いたレポート。

会社がつぶしたかった「民主化」

村山晃弁護士村山 原発についての関電の計画は、いつ頃から本格化していくのですか?

高馬 美浜の1号機は、万博に日本初の原子の灯をつけようということでした。

三木谷 万博が70年で、その後第1次オイルショックがあり、その頃からエネルギーの転換がはかられました。

高馬 60年で石炭から石油に変わり、70年代で原子力ですね。

村山 その時期と反共労務管理が、年代的にあまりにもうまく符号しています。

高馬 昔の電産は、産業政策をしっかりもって運動をしていました。

たとえば当時、電力を国の政策と一致した状態で進めていくのはおかしいのではないかと「電力の民主化」を主張していました。この考え方は正しいと思います。原子力の導入についても、安全な原子力という点は、民主主義の課題です。

結局、反共労務管理は、これらをつぶすということだったと思います。

三木谷 経営者は彼らなりに、前の電産のたたかいから学んだわけです。労働組合が強いと絶対に労務管理がうまくいかない、経営もうまくいかないと。そして、共産党系の人間は絶対に主要なところに置かずに大衆から切り離していく、ということを教訓にしたのだと思います。

だからレッドパージで全国2137名、関西でも340数名の電産の労働者が首を切られました。その上に生き残りを一掃する。職場で目立つ者をやり玉にあげ、労働者が離反するよう攻撃を加え、いやになった本人が辞めるように仕向ける、という政策がとられるわけです。

エネルギーは正義感

村山 反共労務管理の一つのテコとして使われたのが、仕事の差別や昇格の差別、さらには賃金差別ですね。

三木谷 私は若者の職場から、年寄りばかり4人の、小屋みたいな試験室というところに「隔離」されました。

村山 若い人たちの間での影響力を排除するためですね。

三木谷 当時私は写真部の幹事もしていましたが、写真部員にまで、私が主催する例会に参加するな、やめてしまえと攻撃し、とうとう部員が全員いなくなりました。これはこたえました。

村山 そういうなかでがんばってこられたエネルギーはどこにあったのですか?

三木谷 私がやっていることは間違いではない、という確信はありました。とにかく会社が無茶苦茶やってくるんだと。それに対して、正義感だけでたたかっていたような状態もありましたね。

最高裁判決の深い内容と職場体質

村山 最高裁は95年、「現実には企業秩序を破壊し混乱させるなどのおそれがあるとは認められないにもかかわらず」「共産党員又はその同調者であることのみを理由とし」て行われた関電の反共労務管理について、異常で非人間的な不法行為だという判断を下しました。
  そういう職場体質は、どこにつながっているのですか。

三木谷 会社は原発建設の前に、地域に狙いをつけて、そこに原発賛成派をつくる工作をします。札束で住民のなかのコミュニティを分断していくわけです。

職場の反共労務管理は、「あのようにされてええのか」と私らを見せしめにして労働者をおどし、私らに接近させないようにするわけです。

職場の中と外で、まったく同じやり方なのです。

高馬 原発で働く社員はごく少数で、ほとんどが7次まであるという下請け孫請けの未組織労働者です。世界でも例がない日本の特徴です。これは職場に対する企業側の支配が徹底しているからです。

そのためにも、最高裁の判決を職場に徹底させる必要があります。その運動は差別争議が解決して10年、まだこれからという感じです。

三木谷英男さん三木谷 最高裁の判決は「職場における自由な人間関係を形成する自由」を会社は保障せよと言い、99年の和解のなかでも「関西電力は憲法をはじめとする諸法規を守る」と言っています。しっかりと、それにもとづいた職場関係をつくらせていく必要がありますね。
  原発については私らも危険性を指摘し、安全神話に頼らず科学的に判断すべきで、プラント自体が未完成だから事故を頭に置いて慎重にすべき、と警告してきました。

しかし労働組合は安全神話によりかかり、労使一体となって進めてきました。私らは異端児でしたが、原発事故で安全神話は崩壊しました。間違っていなかったということで私たちの権威は高まったと思います。

同時に、電力職場の実態の一端が国民的に明らかになったと思います。労働運動もこうした世論に支えられながら、壮大な運動を展開してほしいですね。

勇気が得られた弁護団の後支え

村山 関電の労働者の人たちの権利闘争に私どもの事務所が果たしてきた役割については、どんな感想をおもちですか。

三木谷 村山先生とのお付き合いは、私が原告になった71年以来です。先生も初仕事だったと思います。

はじめは、この初々しい弁護士が関電相手にどこまでやれるのかと不安もありました。しかしいざ法廷が始まると、声は大きいしするどい突っ込みで向こうがオタオタする。なかなか頼もしい先生だと非常に喜びました。

私も法廷のたたかいと同じように、職場のたたかいを常に意識し、役員選挙にも積極的に出ました。ビラ事件では高馬さんが二審以降で負けましたが、実践的に跳ね返していこうと、先頭になってビラまきの自由をめぐってたたかいました。

私に対しての攻撃が高じてどんな事件が起こらないとも限りません。弁護団の後支えがあるからこそ、前へ進む勇気が得られたと思います。

高馬 私のビラ配布処分事件に始まって、人権裁判、賃金差別のたたかいで全関西的にたたかうようになり、全体的な弁護団の会議が始まった。そういうときが頼りになりました。関電の労務管理を根本から追及していくことができたと思います。

国民的な運動と結んで

村山 最後に事務所の50年に寄せる言葉がございましたら……。

三木谷 今、原発を通じて国民的な運動が大きく盛り上がろうとしています。弁護士活動はいろんな面でこれからたくさん仕事があると思いますので、国民のみなさんの運動と連携して、発展していっていただきたいと思います。

高馬 50年という長いたたかいに敬意を表します。私も75歳ですが、まだまだ体に気をつけてがんばっていきたいと思っています。がんばってください。

村山 今日はありがとうございました。

「京都第一」2011年夏号