まきえや

2002年 京都府知事選挙候補者活動を終えて

2002年 京都府知事選挙候補者活動を終えて

はじめに

4年前は、最後まで良く頑張れたとの充実感が湧いてきました。今回は、なんとしても知事室の扉をこじ開けるとの固い決意で活動して来たため、なにより残念との思いが強く残りました。それでも、民主府政が落城して後最高の39万票を積み重ねることが出来たことは、良く健闘し、近い将来への礎を築いたと評価すべきでしょう。力不足はありましたが、1日も休むことなく、健闘できた自分をほめたいと思います。

この間、民主府政の会の各構成団体等の皆さま初め、多くの府民の方々がご支持、ご支援下さり、全国からもたくさんのご援助を頂きました。このことにつきまして心からお礼を申し上げます。

再び立つ決意

昨年12月に出馬の要請を受け、1月11日決意表明をしました。この間多くの団体や労組の関係者などからの個別の要請も受けました。年末帰省で京都を発った直後には建築労働者10数名が自宅に来られ、留守を守っていた妻に要請文を渡して行かれることなどもありました。4年前に比べ、くらしはよけい悪くなっており、何んとか現状を変えたいとのみなさんの熱い思いは痛いほどよく判りました。また弁護士として、同時テロ事件以降憲法が危ないとの思いも募っていました。このような問題意識から、「痛みの押しつけに悲憤し、憲法蹂躙に慷慨する、激しい憤りの心情から再び立つ」と決意表明したものです。

再び立つのであれば、対立候補者や対決の構図がどのようになろうとも、前回築いた新しい峰の更にその上に昇るのでなければならないと思っていました。前回よりは活動期間は遙かに短いとの制約はありましたが、前回支持して下さった層の人達に対しては、一から名前など浸透させていく努力は省くことが出来るとは考えていました。

政治状況の変化

出馬の決意を表明した時点では、小泉政権に対する支持率は当初からの高いままのものが維持されていました。しかし田中真紀子外務大臣と鈴木宗男両名に対する「処分」がなされて以降、国民にとっても小泉首相に対する幻想が崩れだし、その後加藤紘一氏の公共工事への口利き疑惑なども発覚し、国民の怒りは高まってきました。このような国政の問題について府民がこの知事選挙でどのような審判を下すのかということが問われるという状況ともなってきました。このことはこちらにとっては追い風となったことは間違い無いでしょう。

ところがその後鈴木宗男氏追求の急先鋒を演じて来た社民党の辻元清美氏に対する、政策秘書給与詐取問題も発覚しました。この問題はこちらにとってマイナスに左右しないかとの質問も何度か受けました。事態を正確に見ることの出来る人達にとっては、社民党は京都では「オール与党」の属しているため、悪い影響は無いと言えるでしょうが、「無関心層」の人々にとっては、与党も野党も変わらないと映った面もあるでしょう。

特に選挙戦終盤には共産党の秘書給与献金問題を各与党が取り上げ、投票日午前のテレビ討論でも各党がこの問題を指摘していたのは、京都の知事選挙対策の意味も含まれていたのでしょう。

横浜市長選挙の流れが京都で再現することにならなかったのは、府内全体では都市型とは言えず、政党の組み合わせも違うとの側面とともに、状況の変化もあったのでしょう。

なお、川田龍平、悦子両氏が京都に来られて、初めて選挙の応援演説をして下さるようになったのは、辻元清美氏の問題から、社民党に失望し、現在の政治状況で、京都の私が勝利することの意義が特別大きいとの認識からでした。龍平君は、石原都知事が来るのであれば、自分はもう一度京都に来ると言って東京へ帰ったのですが、ドクターストップがかかり、2回目の応援は不可能となりました。彼の一瞬一瞬を大切にし、生命を絞り出して話す言葉は、とりわけ多くの若者の心を打ちました。

与党「分裂」?

笹野貞子氏らと相談した結果、当時の八木町長でJA各会の会長でもある中川泰宏氏が立候補されました。このいきさつ、動機などについて何かと取り沙汰されることとなりました。私自身は26年間の弁護士活動の中で、以前のこととはなりますが、中川氏個人より事件を依頼されたことはあり、面識はよくありました。しかしどこでどうなったのかは明らかではないのですが、(1)私が彼を立候補させ、(2)彼を副知事にするとの密約がある。(3)30年来の仲で、顧問弁護士である、などとの宣伝が与党側の演説会などで各弁士によって繰り返されたようです。JA会長ともあろう者が副知事程度で釣られる筈が無いなどと誰にも判りそうなものですが、このように宣伝することの意味はどこにあったのでしょうか。与党側とすれば、彼を思い留まらせることが出来なかった言い訳ともなり、また何より内部を引き締めるねらいがあったのでしょうか。しかし謀略宣伝は選挙をゆがめるものです。終盤に至って出所不明の共産党攻撃の違法ビラもまかれましたが、このような戦術を展開する人達には、政策で堂々と争うべき選挙戦を戦う資格がないと言うべきでしょう。

中川氏側は、オール与党でも共産党でもない、無党派を標榜したようでした。しかし組織的には当然農協内部で与党側と切り結んだでしょう。私を推薦してくれた農民連や農村労組の人達などとも争う構図となっています。票の出方を見ますと、府内全体で一定まんべん無く出ていることから、無党派の人達の支持もそこそこあったことは間違いないでしょう。

人によっては、中川氏が出なくて、2極対決であれば選択の基準はもっとわかりやすく、結果は異なっていたと言われる方もおられます。3極対決には至らず、変則的な2極対決となってしまったとの評価なのでしょう。

運動の前進

府内全域で、新たな運動の結び付き、感動がありました。最終盤私自身が各地域、団体のセンターなどに電話をかけた際、どこでも、若者からお年を召した方達まで、実に多くの方々がぎりぎりまで活動しておられました。みなさん動けば反応があり、運動の確信になっているようでした。

また候補者の私に対し直接、宣伝カーに走り寄って来て下さり、「私は何々党の党員であるが、今度は貴方を支持する。頑張って下さい。」「政見放送を見たら一番信用できるので投票する。」などと言って下さる方達がたくさんおられました。このような経験からも、無党派層の人達のみならず、与党支持者の人の多くも私を支持して下さったことを街頭からも実感しました。従来にはなかった到達点で、力は確実に蓄えられています。

また、私が公約とした、乳幼児医療費無料化の拡大や、30人学級、住宅改修助成制度創設などは、今後一層大きな流れとなって行くでしょう。

今後の課題

与党側の、とりわけ横浜市長選挙結果判明後の取り組みは、恥も外聞もないすさまじいものでした。いわば政府与党を挙げての体制で、100人近くの国会議員と100人を超す秘書団を動員し、地域では徹底的に自治体、業界、団体締め付けが、しかも何重にも行われました。政党色を薄める為か、都知事や大阪府知事はじめ、近畿のみならず全国からも知事が動員され表に出ました。これらの運動は、どちらかと言えば、従来の支持基盤に対し締め付けるとの意味合いが強かったでしょう。

これに対しこちらは、従来の支持層の枠の外に向かって、堂々と政策を訴えるという運動でした。結果は残念ながら前者の側の締め付けが少し勝ったということのようです。

今回も有権者の過半数の人達が投票所に足を運ばれませんでした。こちらの訴えが届いておらず、無関心を関心に変える力が足りませんでした。府民の多くが無関心なのはそれなりに理由があります。選挙運動の自由が制約され、府民にとって、各候補者の政策の違いを正確に理解することはなかなか困難になっています。選挙公報は新聞のチラシと一緒に配布されても、そもそも目に触れる人自体が少ないでしょう。またこれを読んだとしても、表面上きれいなスローガンが並んでいるだけではないでしょうか。政見放送も短時間、数回流されるのみで、見たり聞いたりする人も少なく、運良く見られたとしても、よほどしっかり注目しなければ違いは判らないでしょう。また新聞やテレビも、選挙報道は政策の中身を十分に浮き上がらせることはしません。むしろスポンサーの意向が反映し与党に有利に反応しがちです。

また前回までは可能であった「パンフ宣伝カー」も、またまた公職選挙法の改悪で今回からは不可能となり、期間中の拡声器を使っての宣伝は、この広い府内で僅かに候補者カーと政策宣伝カー2台のみとなりました。この結果選挙期間に入れば却って街の中は静かなものとなり、これでは選挙の雰囲気が盛り上がる訳がありません。本来民主主義のお祭りである選挙に、府民が自由な立場で参加できるようにするためには、世界に類を見ないわが国のべからず選挙法を変え、選挙運動の自由化をはかることがどうしても必要です。

このような条件のもと、私たちが政策を外に訴える方法としては、主要には、ビラ(会の機関誌通常号と法定ビラ)を各戸に配布することと(これも新しいマンションなどでは困難になりつつあります)、電話で対話することの2つしかありません。今回みなさんは本当にぎりぎりのところまで活動されました。しかし 200万人の有権者の中で、なお多くの方達に訴えが届きませんでした。終盤の活動があと1週間も続けられたら(ちなみに何回か前までの知事選挙では選挙期間は今より1週間は長かった)状況は相当変わっていたでしょう。

しかし、今回「オール与党の相乗り」に対する厳しい審判が下されたことは間違いありません。そして民主府政の会には確実に新しい力も蓄えられました。真実と道理を掲げ、展望をしっかりと見据えて、堂々と前進していけば、必ず近い将来府民が主人公の府政を実現出来ることでしょう。

「まきえや」2002年春号