まきえや

中居過労死認定闘争の勝利報告~大阪高裁で逆転勝訴判決確定

中居過労死認定闘争の勝利報告~大阪高裁で逆転勝訴判決確定する~

はじめに

過労死裁判勝利判決報告会

2006年4月28 日午後1時30 分前。大阪高裁73 号法廷には、判決言渡の時刻より少し早く裁判官3人が入廷してきた。井垣敏生裁判長が「少し時間が早いけれど判決の言渡をします。」と述べた瞬間、私は勝利判決を確信しました。予想どおり「原判決を取り消す。被控訴人が平成4年4月13日付けで控訴人に対してした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。」という主文が告げられた。ついにやった、逆転勝訴判決だ。その瞬間、私は中居百合子さんの方にV サインを示しました。上告期限の5月12 日までに上告がなかったことから、勝訴判決が確定しました。夫の中居和好さんが仕事中に急性心筋梗塞で倒れ死亡したのが1990 年(平成2年)3月16 日のことですから、何と16 年もの歳月をかけて、ようやくつかんだ労災認定でした。

事案の概要

中居さんは、中学校卒業後、もともと写真製版の技術者として大日本印刷に入社して稼働してきたのですが、1985 年(昭和60 年)に会社の一方的な都合(合理化)により、子会社である大日本物流システムという会社に移籍し、2組2交替の深夜勤務を含む製品包装作業に従事してきました。グラビア印刷の巻取り製品(平均10~ 20 kg、重いものは40 kg以上)を運搬し、積み上げ、包装し、そして倉庫まで運搬するという作業でした。当時50 歳という年齢となり、それまでとは全く異なる職種である包装作業はかなりの重労働で、中居さんにとっては相当な負担となったことは明らかでした。しかも、交替勤務(昼勤は6人1組、夜勤は2人1組)は、週のうち2日が夜勤、3日が昼勤というサイクルで、2週間に一度は昼勤と夜勤が連続して行われていました。しかも1回の勤務が実質12 時間拘束というものです。このような長時間重労働、1勤務12時間という交替制勤務の中で蓄積した疲労が中居さんの体を蝕み、ついには急性心筋梗塞を発症して、過労死させたわけです。

一審地裁判決の不当性

2001年(平成13 年)12 月に厚生労働省の脳・心臓疾患による労災認定基準が改定され、恒常的な長時間労働等の負荷が長期間にわたって作用した場合も「長期間の過重業務」として労災認定要件となりました。その疲労の蓄積をもたらす最も重要な要因と考えられる労働時間を目安にすると、発症前6か月間の時間外労働が月平均80 時間を超えると業務起因性が強く推認され、逆に月平均45 時間以下であると弱いとされており、中居さんの場合には、おおよそ53 時間~65 時間となっており、いわばグレーゾーンにあたる場合であることから、裁判所がどのように判断するのか注目されていました。

2002年(平成14 年)10 月24 日言い渡された京都地裁の判決は請求棄却でしたが、中居さんの労働実態については、包装作業職務の内容については、「肉体的にも疲労度の高い負荷をもたらす業務」であることを認定し、(1)昼勤も夜勤も残業が恒常化しており、未処理の製品が残っていれば、休憩・仮眠時間も作業を継続することが多かったこと、(2)個人ノルマはないものの、班全体として作業を進めていく必要から、製品が滞留しないようにする必要があったこと、(3)夜勤は2人体制であったため、休暇が非常に取りにくい状況であったこと、(4)仮眠室や独立した休憩室はなく、横になって仮眠できるスペースもなかったことなど、ほぼ原告が主張していた内容どおりの労働実態が認定されていました。さらに、中居さんの死亡1か月前および2か月前の時間外労働は、56.5時間および57 時間と死亡直前において恒常的に長時間労働に従事していたこと、また、死亡6か月前から死亡するまでの間も、年末年始の時期を除けば、恒常的に長時間労働に従事していたことまでも認定されていました。

しかし、地裁判決は、中居さんが「準肥満状態で、準高脂血症状態」であったとし、「平成2年1月上旬に罹患した新規発症型労作狭心症は心筋梗塞に移行しやすいもので、準高脂血症などの心筋梗塞の危険因子も有していたもので、冠動脈硬化が徐々に進行するなどして、その狭心症が心筋梗塞に移行する危険が相当あった」として、1月からの不安定狭心症の症状がかなり重篤で自然的経過により容易に悪化したものと認定しました。さらに、(1)夜勤明けには1日または2日の休養時間が確保されていたこと、(2)死亡前6か月間に、時間外労働時間が月60 時間を超えたのは1月しかないこと、(3)死亡前8日間に4日の休暇を取得しており、死亡前日は休日であったこと、(4)死亡前約2年間に勤務シフトには変更がなかったことなどを理由として、業務の過重性を否定しました。

画期的な高裁判決

高裁の審理では、(1)本件作業現場の検証と、(2)本件業務の過重性、虚血性心疾患との影響等に関する鑑定(前原・上畑鑑定人)が実施されました。高裁段階でこのような現場検証や鑑定が採用されることはあまりないことから、高裁の裁判官たちのこの事件を見る姿勢が伝わってきました。実際に現場検証とはいっても、事件当時から15 年も経過していて、当時とはかなり状況も変わっており、検証に「協力」するとはいえ、会社も極力抵抗して、業務上の必要からと、写真・ビデオ撮影禁止、作業員への質問禁止など、かなりの制限を受けました。しかし、高裁判決は、事実をひとつひとつ丹念かつ詳細に認定し、相手方の主張に対する反論も行いながら、業務起因性を認定しました。

まず、高裁判決は、業務起因性の判断として、「虚血性心疾患の業務起因性の認定に当たっては、虚血性心疾患の発生機序の解明を基礎としつつ、業務量(労働時間、密度)、業務内容(作業形態、業務の難易度、責任の軽重等)、職場環境、そのほか心理的負荷等を含めた業務による諸々の負荷、さらには発症後の安静治療の困難性などの事情を総合的ないし包括的に考慮して判断すべきである。」とし、とりわけ「業務による疲労の蓄積の評価については、・・・労働時間の長さや就労態様を具体的かつ客観的に把握し、総合的に判断する必要がある。」とした上で、「行政実務上の解釈基準となる認定基準に完全には合致しなくても、これとは別の誘因、機序、経過等を明らかにして、業務と疾病との間の因果関係の存在が立証されるならば、業務起因性は肯定されるべきもの」であると述べています。

そして、高裁判決は、前原・上畑鑑定書の意見を採用し、中居さんの従事した業務の作業強度は、「動的な筋労作の要素と静的な筋労作の要素が組み合わさった中程度のものであるから、肉体的にも相当疲労度の高い負荷をもたらす業務である」と認定し、「職場には深夜勤務中十分に仮眠できるような施設もなく、さらに死亡1か月前および2か月前の時間外労働時間を見ると、それぞれ56.5 時間および57 時間となっており、死亡直前の時期において恒常的に長時間労働に従事しており、また死亡6か月前から死亡するまでの間も、年末年始の時期を除けば、恒常的に長時間労働に従事していたものと言える。」と述べています。つまり、長年深夜交替勤務を含む業務に従事することにより、不安定狭心症を発症したと思われる平成2年1月当時、「疲労の蓄積」状態にあったものと見られ、本件業務を長期間継続したことによる負荷要因が不安定狭心症の発症に何らかの関与をした-基礎疾患を自然的経過を超えて増悪させ発症させるに至ったと考えると判断しています。

こうした理解に立った上で、50歳過ぎという中居さんの年齢との対比から、本件業務の作業強度は軽作業の範疇に属するようなものではなく、しかも1日12 時間拘束という長時間労働に服していた上、深夜交替勤務という生体リズムと生活リズムの位相のずれが大きい労働への従事を求められていたことを重視し、使用者としては、中居さんから明示の申出がなくても、その年齢に即応した勤務体制の変更を検討して適宜の措置を講じたり、夜勤に従事させる場合には、具体的な申出があれば、交替要員の補充が容易になし得るような体制を整えておくべき義務があったと、会社の取るべき措置について明確に述べています。にもかかわらず、会社はこれを怠っていたのであり、このような作業環境が基礎疾患(不安定狭心症)の発症の要因になっているものと認められ、中居さんの不安定狭心症は本件業務に起因するものと判断することができるとしています。

そして、平成2年1月時点で発症した不安定狭心症は、同年2月下旬頃には小康状態にあったことからすると、安静を保ち治療を受けていれば不安定狭心症が自然的経過を超えて増悪して、直ちに急性心筋梗塞を発症するという状態にはならなかったであろうと推認しています。それにもかかわらず、本件事故前日のみならず、これに引き続き翌日も連続して年休を取ることにためらわざるを得なかった事情から、安静の機会を失う結果になり、その上本件業務による作業負担が加わったことから、不安定狭心症を増悪させて、急性心筋梗塞の発症を促進する結果になった-言い換えれば、本件事故当日、本件業務に従事しなければ急性心筋梗塞の発症を回避し得た可能性があると判断しています。

高裁判決は、急性心筋梗塞に移行する危険性の高い疾病である不安定狭心症を基礎疾患として有し、長期間深夜交替制の勤務形態に服し、常態として負荷の大きい業務に従事していて疲労の蓄積した中居さんが、かかる負荷の蓄積により、本件事故前日の年休のみでは疲労の回復ないし解消が得られていないにもかかわらず、本件事故当日、休暇取得の申出をしにくい状況の下で本件業務に従事したことによって、更に負荷の暴露を受けざる得なかったことにより、長期間にわたって本件業務に従事したことによる負荷の暴露と相俟って、勤務態様及び労働密度を含めたところの本件業務に内在する一般的危険性が現実化し、血管病変が自然的経過を超えて急激に著しく増悪し急性心筋梗塞の発革を早めるのに大きく寄与したと推認するのが相当であると判断をまとめています。

地裁の判決書がわずか18 頁であるに対し、高裁の判決書は64 頁(別紙を除く)に及ぶものであることからしても、高裁判決は、これまで提出されていた証拠に加え、自ら実施した検証と鑑定に基づき、事実を一つ一つ詳細に認定した上で、処分庁側の主張に対しても採用できない理由を丁寧に述べながら、最終的には業務起因性を認定しています。事実をどう見るかという視点が、地裁判決と高裁判決とで、こうも違うのかと驚いてしまうほど、高裁判決の判断は素晴らしいものでした。

最後に

中居さんの過労死認定闘争が始まったのは私が弁護士になって5年目のことでした。私にとっては初めての過労死事件でしたし、それから16 年もかかって、ついに労災認定を勝ち取ったことは喜びも一入です。思い返せば、花房病院にカルテを見せてもらいに行ったことから始まり、吉中先生(当時上京病院医師)や同僚の今西さんらと議論し、労災申請を行いました。非情な外認定に対し、審査請求して棄却され、再審査請求しても棄却され、京都地裁に行政訴訟を提起しても棄却されました。この頃が一番苦しかったと思います。それでも、へこたれず控訴して頑張りました。地裁判決にはとても悔しい思いをしましたが、それでも、その判決の中に勝利の足がかりがありました。労働実態の把握と結論との間に納得のできない食い違いがあったからです。高裁での検証・鑑定と進み、鑑定意見書が提出されるまでに時間がかかり、少し苛々しましたが、労働実態を正確に把握して分析した鑑定書の内容に逆転勝訴を確信しました。どんな逆境にあっても負けずに前進しようと頑張った中居さん、地裁法廷で証言していただいた吉中先生、鑑定書を書いていただいた前原・上畑両先生、そして同じ職場で働く同僚、職対連、家族の会を始めとする支援の仲間の皆さん、本当にご苦労さまでした。勝利を信じて頑張ってきたからこそ、今日の喜びがあり、明日に向かう勇気が生まれます。中居さんの事件は、私の弁護士人生の中でも決して忘れることのできない闘いであり、大きな財産となりました。そんな闘いができたことを本当にうれしく思っています。

中居さんの過労死認定闘争のあしどり
年月中居さんのたたかい
1954年大日本印刷京都(写真製版)入社
1983年製版部門が会社の業務移管により大日本製版に全員移籍
1985年中居さん大日本製版より大日本物流システムに移籍入社
1990年3月午後1時過ぎ作業中に心筋梗塞にて死亡
1990年6月京都上労働基準監督署に労災申請
1992年4月京都上労働基準監督署・業務外決定
1994年7月京都労働保険審査官(審査請求)棄却
1996年11月企業との和解交渉成立
1997年8月労働保険審査会(再審査)請求棄却
1997年11月京都地裁へ提訴
2002年10月京都地裁敗訴 ⇒ 控訴
2005年1月大阪高裁現場検証実施
2005年9月前原・上畑家鑑定書提出
2006年3月控訴審結審・要請ハガキ運動(7000枚)
2006年4月28日勝利判決
2006年5月12日勝利判決確定

勝訴判決を喜ぶ関係者一同(2006年4月28 日 大阪高裁前にて)

「まきえや」2006年秋号