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日本の戦後補償と中国残留日本人孤児問題の解決

日本の戦後補償と中国残留日本人孤児問題の解決
-孤児たちに訪れた初めての戦後-

村山 晃弁護士 村山 晃

絶対に忘れてはならない

私たちが忘れてはいけないことがある。とりわけ日本人は絶対に忘れてはならない。今からわずか60数年前、戦後世代には想像することもできない、大きく悲惨な現実がそこにあったことを。私は、たまたま戦後補償問題に遭遇し、アジア各地を訪ね、沖縄や長崎・広島などを訪ね歩いた。さきごろアウシュビッツにも訪れる機会を与えられた。

最近の日本は、日本の平和が、米軍や自衛隊によって守られてきたかのような、論調が横行している。アメリカや日本の軍隊が、あたかも「平和な軍隊」のように描かれる。「そうではない」との叫びは、年を重ねる毎に遠ざけられようとしている。その象徴的な出来事が憲法9条の「改正」論議である。また、日本の国家予算が、破綻をきたし、福祉が次々破壊されても、日本の軍事予算だけは、容易に減少しない。

「ほっとけない」と毎朝「政府の無駄遣い」を声高に批判するテレビのコメンテイターも、この点は全く触れようとしない。「聖域」が、そこに作り上げられている。

置き去りにされた戦後補償

日本が引き起こした戦争は、アジア各地に大きな被害を与えた。そして未だその処理は終わっていない。日本の軍隊に陵辱された「慰安婦」の人たちが、無理矢理連行され強制労働させられた人たちが、「皆殺し作戦」で、村ごと消失させられ、かろうじて生き残った人たちが、日本を訴え、謝罪と、正当な補償を求めている。60年経った今も、その声は消えない。

「過去の自らの非人道的行為を見ようとしないものは、未来も見えない」とドイツでは大統領が語り、その実践に努めてきた。

日本では、こうしたアジアの国の人たちと同じように、日本人も、一握りの権力者が引き起こした戦争の大きな犠牲になり、やはり、民間人には、何の補償もされず放置された。

この戦争の結果、幼くして中国に取り残された一群の人たちがいる。このように数千人という規模で幼い子どもらを戦地に放置してきた国は、日本以外、寡聞にして知らない。

中国残留日本人孤児である。

終わらない戦争・冷たい祖国

彼らは、終戦から62年も経ったのに、なかなか「戦後」は訪れなかった。戦争は終わらなかった。

敗戦直後、幼くして中国満州に独り取り残されたのは、明らかに日本の戦争の責任である。ところが、それだけで問題は終わらなかった。それから後も、ずっと、帰国がかなわず、ようやく日本に帰れたのは、戦後30年以上もの時を経てからであった。これも日本の中国敵視政策のためである。

つい先頃、日中国交回復35周年を迎えた。

国交回復を経て、さらに長い年月を経て、ようやく帰国できた彼らを待っていたのは、冷たい日本政府の施策であった。

裁判・そして全面解決へ

こうして長期間、苦しめられてきた中国残留日本人孤児の人たちは、ようやく「戦後の平穏」を手に入れようとしている。

そのためには、4年もの裁判闘争が必要だった。全国15の裁判所で、2,200人の人たちが裁判を闘ってきた。京都も裁判闘争では原告109人をかかえ、事務所は、弁護団活動に力を入れてきた。その裁判は、近く結審し判決を迎えることとなっていた。

「一日も早く全面救済を」「老後の安心した生活を」「人間の尊厳の回復を」と孤児たちの必死の訴えは、裁判所で国を追いつめ、ようやく「政治」が動いた。これまでの国の施策が極めて不十分であったことを認め、それを抜本的に見直し、孤児の人たちの要求に沿った支援策を取りまとめたのだ。この秋の臨時国会で立法化される運びになっている。

孤児の人たちの待ち望んだ支援策

孤児の人たちは、いわば「裸一貫」で、日本に帰国した。言葉や文化の壁に阻まれ、仕事もままならなかった。その結果、大半が「生活保護」に依拠せざるを得なかった。そこからの脱却が、最大のテーマだった。「生活ができる収入の確保」は、支援策の一番の柱である。

政府案は、月額およそ14万円の給付をし、医療と住宅の扶助を、これに加えた。「生活保護」は、常に監視がつきまとったが、より自由に生活をしてくための新たな仕組みを作ることとなった。言葉の壁を乗り越えるためや、自由に中国との往来ができる手だても工夫されている。

将来に向かっては、ようやく人間らしい生活を送れる体制が整うこととなった。「戦争被害者には、何の特別な施策も取らない」とし、頑なに孤児への特別な手だてを拒絶していた、日本政府の考え方からすれば、画期的な前進と言うしかない。

私たちに残された課題

支援策の内、金銭的な給付については、骨格が整うこととなったが、孤児の人たちをとりまく生活環境は、依然厳しい。言葉や文化の壁は厳然として残る。人間らしく生きる権利の実現には、乗り越えるべき課題は、多くある。今後のねばり強い実践しかない。

そして一方、日本政府の「過去の償い」と「謝罪」は、結局見送らざるを得なかった。

孤児が生まれた責任は日本政府にあることは明らかだ。長年放置した責任もしかりである。帰国後、裁判を決意するまで放置した国の無策も厳しく断罪されるべきである。それを裁判闘争を通して実現することは、結局できなかった。大きな壁がそこにある。

日本という国が、過去と向き合い、非人道的な行いの一つ一つを常に問い返し、そのような悲劇を繰りさせないために何をすべきであったのかを問い続けること、国をして、それをさせることは、国を担う私たちの役目である。「孤児の訴え」を常に胸に刻み続けること、裁判に関わった私たちの、大きな役目だと思う。

京都新聞の記事
2007年7月10日 京都新聞 朝刊

「まきえや」2007年秋号