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ユニチカ宇治・二硫化炭素中毒損害賠償請求事件

ユニチカ宇治・二硫化炭素中毒損害賠償請求事件

浅野 則明弁護士 浅野 則明

事件の概要

ユニチカという大企業は、古くからレーヨン(人絹)という化学繊維を宇治工場で製造していました。レーヨン糸の製造過程において二硫化炭素(CS2)ガスが必然的に発生し、レーヨン工場の労働者がこれを体内に吸引することによる中毒症という職業病が発生していたのです。

二硫化炭素ガスは、無色無臭であり、毒性が極めて強く、急性中毒の場合は、視覚障害、意識不明、昏睡、呼吸麻痺の症状を引き起こし、長時間の吸引による慢性中毒の症状は、頭痛、不眠、記憶・視覚・聴覚障害、脳出血、脳梗塞などの脳血管障害を引き起こし、放置すると死に至る危険な疾病です。

ユニチカ宇治工場でレーヨン製造に従事してきた労働者の中に、手足の痺れ、歩行障害、言語障害、記銘力障害などの症状を呈する者が古くから出ていました。会社は二硫化炭素ガスによる慢性中毒が起こることを知りながら、生産性向上のため、これを隠し続け、ガスの危険性を労働者に知らせようとしませんでした。

労働者たちは全く気がつかないまま、危険なガスを長年吸い続け、40歳に満たない若さで脳梗塞など重篤な症状を引き起こしました。そして、会社は労働者が知らないことをいいことに、私病として葬り去っていたのです。

立ち上がる労働者

ところが1982年11月、同じレーヨン製造を行っている興人八代工場(熊本)の労働者が二硫化炭素中毒による被害追及に立ち上がるという連絡があり、ユニチカ宇治工場でも同じような中毒患者がいるはずということで、被災者を探すことになりました。

古くから「ガスボケ」と呼ばれる症状の労働者がいたことは分かっていましたが、長年隠され続けた被災者を見つけ出すことは大変なことでした。

宇治市は、ユニチカの企業城下町と呼ばれるほどの場所であり、ユニチカ相手に奪われた健康を取り戻す闘いに立ち上がることは容易なことではありませんでした。しかし、「守る会」や「支援する会」の支援や民医連、職対連の協力を得て、まずNさんら3人の患者が1985年1月に労災申請を行い、1987年2月までに労災認定を受けました。しかし会社は、責任はないとして真っ向から争ってきたため、同年3月、京都地裁に損害賠償訴訟を提起して、大企業ユニチカの企業犯罪の責任追及に立ち上がりました。その後、新たに労災認定された患者Fさんら2人が追加提訴に加わりました。

大衆的裁判闘争

裁判では、会社が「完全に安全性の管理をするのは不可能」、「この程度のガス濃度では発症しないと思っていた」として徹底的に責任を争ってきたため、それを覆すのに大きな労力が注がれました。こちらには資料らしいものがなく、会社側が資料を独占していて、さらに「化繊協会」という企業の連合体とも闘うことになりました。

しかし、人の連帯がこうした事態を克服していきます。化繊関連企業の中に働く人たちの中で、協力をしてくれる人たちの存在は貴重でした。ユニチカに労働省(現厚労省)が立入調査をし、独自の濃度測定をした結果、企業が測定しているものより高濃度であることが他の企業の報告書などから明らかになりました。

月日を追うごとに、そんな実態が次々と明らかになっていきました。興人八代工場の関係で患者発掘に大きな役割を果たした熊本大学の原田先生や熊本民医連の樺島医師らの協力が大きな力を発揮しました。年月はかかりましたが、裁判では着実に会社を追い詰めていきました。そして、会社は最後の切り札として「化繊協会」の専門医師を証人に出してきました。しかし、その証人尋問の結果は会社の思惑と180度異なり、かえって「いかに安全性が確認されてこなかったか」を浮き彫りにするものとなりました。これに被災者の悲惨な実態が裁判所を動かしました。

和解に応じざるを得なくなったユニチカ

1997年5月、裁判で企業が負けると与える影響があまりにも大きいと判断した会社は、裁判所の勧告に従い、(1)相当金額の和解金を支払う、(2)労災認定を受けたことを真摯に受け止め、遺憾の意を表明する、(3)今後の医療や介護についてケアをしていくことなどの内容の和解に応じました。

裁判が始まってからすでに10年という歳月が流れ、発病から数えると実に20年という年月が経過する中で、次第に容体が悪化する原告やその家族にとって、これ以上裁判を続けることは大きな負担でしたので、被災者救済のための早期解決の道を選ぶことになりました。

(事務所担当 浅野則明、村山晃)