まきえや

魅惑のベトナム

魅惑のベトナム

--平和と歴史と くいしんぼうの旅--

ハイビスカス・アオザイ・「ホンダ」の国へ

真冬の日本、関空を午前11時に出発。約7時間の空の旅を経て、現地時間午後三時半、ムッという熱気を肌に感じて空港に降り立った。

初日は、ホー・チ・ミン市。空港あたりにもハイビスカスの花が咲き乱れ、真っ青の空の下、色鮮やかなアオザイ姿の女性がさっそうと歩いている。まずは、バスに乗って、市街地にあるホテルに直行。ホテルで一息つくとベトナム労働総同盟の人々との交流のため、バスで繁華街にあるレストランに向かった。町は正月明けで少しずつにぎやかさを取り戻しつつあった。ものすごいオートバイのラッシュ。恋人、夫婦の2人乗りは当たり前、1台のバイクに家族4人(運転席に夫、後ろに妻、前後に子ども2人)もざらである。そんなバイクの群が、バスの前を悠々と涼しげに走っていく。

ベトナムのドイ・モイ政策の波は、急速に社会を変化させており、バイクは新世代の1つのステイタスとなっている。べトナムではバイクのことを「ホンダ」というのだそうだ。また、町で見かける人々が実に若い。そんな感想を抱きながら、レストランに到着。仏領時代のフランス式民家の面影を残したレストラン。アオザイ姿の女性たちの一弦琴の生演奏をB・G・Mにカニとアスパラのスープ、春雨の炒め物、シーフード鍋をいただきながら、ベトナムの労働者たちと交流する。

その後、既にベトナム4回目の人(「通人」と言おう)がベン・タイン市場を歩こうと誘ってくれる。やはり、バスの旅で上からばかり町を見ても仕方がない。危なくなかったら1人でもうろちょろしたいのが私の性分。早速、私と夫も同行する。

モダンなシルクの洋服やアオザイのブテイックにも目が行くが男性ばかりの散歩のため、あまり自由がきかない。うむ残念。同行の通人が日本料理の店に行こうという。ベトナムまで来てなんで日本料理なんやと私は思うが、ここで1人にされても、と同意する。日本料理の店は、オーナーが4、5年前までは、日本の会社の社員でベトナムに赴任していたという。彼が、ベトナム経済の裏話をしてくれる。労働者の平均的給料、ベトナムの会社は基本的に日本でいう「合名会社」だということなど。こうしてベトナムの一夜が明けた。

一弦琴の演奏を聞きながら食事

戦争の傷跡、そして平和な田園風景

翌朝は、「戦争証跡博物館」「歴史博物館」「統一会堂(旧大統領官邸)」を見学。戦争証跡博物館は、以前は、戦争犯罪博物館と名付けられていたが、アメリカとの外交を考慮して最近名前が変更されたという。ベトナム戦争の痛ましい傷跡を写真の展示とコン・ソン島(トラの檻)などが米軍の残虐さを告発している。残念ながら、解説文は仏語とベトナム語で書かれているだけである。米語の解説もすべきだと思う。アメリカの人々にも平和の問題を加害者として感じてもらいたい。そんなことを思いながら、ホーチミンから国内線でハイ・フォンへ。ハイ・フォンからバスでハ・ロン湾へ。約5時間のあまりの道程。途中、雨が降り始めた。車窓から見える壮大な田園風景はベトナムが農業国であることを再認識させる。

田圃に見えるのは、牛と人のみ。ベトナムでは、自給自足経済を重視しており、自分たちが食べるための農業用の土地は国が無償で貸している(所有?)ということだが、個々の土地は機械化するほど広くないため、機械化は進んでいない。もっとも機械があまりに高いということもあるが。雨の中でも、田圃の中に働く姿が何度も目に入ってくる。ベトナムのあの三角のかさを頭につけて、腰をまげている姿だ。そしてハ・ロンに到着した。

=ハ・ロン=「しゃこ」と山水画

ハ・ロンは肌寒く、日本に戻ってきたかのように寒さがしみる。移動距離が長く、春頃に日本列島を縦断するようなものだと聞かされていたので、セーター、スプリングコートは用意していた。これらを羽織り、重装備する。ハ・ロン湾は、あのトン・キン湾の一角にある。中国桂林の璃江下りを海に再現したような景色。その中をクルージングする。舟が進みはじめた。進むに連れて、昼食用のかに、えび、しゃこなどを載せた舟が近づいてきてドッキングする。舟主が食材を買い入れた。

私たちは、ハ・ロン湾の中にある鍾乳洞を見学。舟に戻ると、舟の上で調理された料理を食べさせてくれる。新鮮なしゃこをゆでたものがみんなお気に入りの様子。満腹になり、舟の中でベトナム刺繍のおみやげをしこたま買わされると、ほどよく時間も過ぎて舟着き場に到着した。

ハ・ロン湾クルーズ

ハノイの静寂と活気のホアン・キエム湖

昼過ぎ、再びバスに乗り、ハノイへ。ハノイに近づくと町の雰囲気が伝わってくる。ホンダの群が多くなってくる。夕暮れのハノイの町は、一見静寂だが、ホーチミンの活気とはまた違う活気を感じさせる。町中には、「新しい橋」から入る。そこから「古い橋」(ロン・ビエン橋)が見える。古い橋は、ベトナム戦争当時、紅河を徒歩で渡れる唯一の橋であったためベトナム戦争中に米軍にしばしば爆撃され、その度に修復したという。ベトナム人民の底知れぬ力を思い起こさせる。西湖のほとりのホテルに泊まった。郊外にあるため、あまり観光時間がとれそうにない。夕食前の1時間半あまりをホワン・キエム湖畔散策と決め、その後、自力でレストランに行くことに決めた。私がホワン・キエム湖畔散策にこだわったのは、「ホワン・キエム湖、水清く…バーデン広場今よみがえる…」と学生時代によく歌った湖をやはり見たいと思ったから。霧雨の降る中、ちょっとしゃれた喫茶店で夕暮れになずむ街を湖の対岸に望みながら、しばし、ゆったりした時を過ごす。その後、ハノイの街を散策する。私たちの後ろから子どもたちが、列をなして手を差し出してきた。ずっとわめきながらついてくるので、根負けした人がドンを渡す。と子どもは一目散にかけだしていった。以前、ハノイでは子どもがお金を求めてもっと一杯ぞろぞろと着いてきたという。

少しずつ変わって行くハノイ。でも、悪くは変わって欲しくないなと思いながら、そぞろ歩く。

ようやく着いたレストランは、おしゃれなレストランだった。食事は、ベトナム料理定番の生春巻き(ゴイクン)、はちみつソースの牛肉ソテーなど。ここで、労働総同盟の人や外務省の役人と交流。ハノイ大学日本語学科の学生さんたちも参加していた。学生の一人が、カラオケに行きたいといい、つきあう。ベトナムでは、五輪真弓の「恋人よ」が大ヒットしたらしい。学生は、「恋人よ」やその他の日本の歌を日本語で歌ってくれた。

=ハノイ=北爆と人々の悲しみと

4日目。午前中はホーチミン廟、ホーチミン住居、一柱寺を見学。ホーチミンは「自分の遺骨は海?にまいて欲しい」と言ったらしいが、残念ながら、廟の中に生きているように座っている。その周りに、ろう人形と見まがう本物の兵隊が直立して警護をしている。

ハノイから空路ダ・ナンに向かう。ハイ・フォンからガイドをしてくれていたアさんがバスの中で私たちに別れを告げる。その時の話は、ベトナムが長い間、大国による侵略と戦争の繰り返しの国であることを思い起こさせ、大変つらく悲しい話だった。

彼のおじいさんの兄弟は、大半がインドシナ戦争で死亡し、お父さんは地雷で失明し、戦争には行けなかったこと。アメリカとの戦争(ベトナム戦争のこと)で防空壕の生活が長く続いたこと。北爆の時のことなどを切々と話してくれた。

=ホイ・アン=シクロで訪ねた日本橋

ダナンを経て、その足で世界遺産の「まち」ホイ・アンを訪ねる。シクロ(三輪車)を貸し切り、街に繰り出した。ホイ・アンは、日本が御朱印船の時代に貿易をした街である。日本との取引の名残は今や「日本橋」に、わずかに残っている。貿易の街だった名残は、中華会館や、フランス風の建物街などそこかしこにある。ダナンで1泊。ホンダのクラクションで何度も目がさめ、時計を見ると午前5時。ベトナム人の朝は早い。

ホイアンの街をシクロの行列で

=フエ=仏領時代と宮廷文化とベトナムうどん

ダナンからフエへ。フエは、阮朝時代の古い都。ホーチミン、ハノイとは、また趣の異なる街である。「ベトナムの紫禁城」と言われる宮殿(ただし、一部のみ現存)や、カイ・ディン廟、ミン・マン廟など阮朝時代の王様のお墓群が観光の名所。カイ・ディン廟は、廟の入り口では中国の兵馬俑のように石でできた実物大の側近や馬たちが廟を守るように立ち並んで私たちを出迎えた。廟は、フランス建築様式を取り入れた廟で、当時の豪華絢爛さを彷彿させる。因みに、お昼の食事はベトナム旅行の中でも私が一番気に入った食事。ブン・ボー・フエ(フエ風牛肉入りうどん)、パイン・スー・セーなどとベトナム・フエ料理を堪能した。パイン・スー・セーは、タピオカのおもちの中に黄色いあんが入って透き通ったお菓子。笹で編んだ箱がかわいらしい。アオザイといい、ベトナム人はなかなか器用である。この日のホテルは、フランス人が作った歴史のあるホテル。でも残念ながら、私たちは水難、蚊難に合って大変な目に。ホテルの居心地は、格では決まらないようだ。

ダ・ナンの市場(パッションフルーツが並ぶ)

=ク・チ・トンネル=ベトナムは何故、アメリカに勝ったか

6日目、空路で、再度、ホーチミンへ。着後、ク・チ・トンネルへ。ベトナム戦争の象徴である。南ベトナムに傀儡政権を作ったアメリカは、ベトナムの解放軍のねばり強い闘いに遂に破れた。解放軍は、アメリカの指令軍のあるク・チの地下にありの巣のようなトンネルをはりめぐらし、アメリカ軍の爆撃を地下生活でかわした。アメリカ軍の目をそらしながら、その上の土地で米を作った。「食料を断たれることが敗北につながる」というホーチミンの教えに従い、銃剣を背に、闘いの合間に田を耕した。ク・チで、当時の様子を再現するビデオを見る。闘いのさなかに笑顔で歌を歌い、踊り、田を耕すベトナム人の姿を目にすると実にたくましく、しなやかな民族であることを実感させられる。ベトナムがなぜ、アメリカに勝ち得たのかの一端をかいま見た気がした。

こうして、ベトナム旅行のハイライトを終え、夜11時25分にホーチミンから空路、日本に向かった。

旅を終えて

真冬の日本を抜け出してベトナム労働者との交流、平和の旅に行こうと夫に誘われた。正直言って、言われたときは、気乗りしてなかった。う~ん、仕事もたまっているし、やりたいこともいっぱいあるしと。しかし、終わってみると実に印象深い楽しい旅だった。ベトナムにはまだまだ行きたいと思わせる何かがある。街自体に感じさせる若さ。ミ・ソンにあるチャンパ王朝の遺跡(世界遺産)も次には是非見たい。

今、日本ではベトナム旅行が一つのブームになっていることをベトナムから帰ってきて知った。リゾート地としてのブームも色濃い。が、是非とも、あのベトナム戦争をもう一度振り返る機会も加えて欲しいと思う旅だった。

「まきえや」2001年春号