まきえや

棄兵・棄民の責任を問う ~シベリア抑留国家賠償請求訴訟~

[事件報告]

棄兵・棄民の責任を問う ~シベリア抑留国家賠償請求訴訟~

2007年12月26日、第二次世界大戦終戦後、シベリアに抑留された旧日本軍兵士30名が国を相手取って京都地裁に提訴しました。その後、8名が追加提訴を行い、現在(2008年4月)、原告は38名となっています。この訴訟で、原告らは、第二次世界大戦終戦時、原告ら旧日本軍兵士のシベリア抑留を招くこととなった日本の棄兵・棄民政策の違法性と責任を追及しています。

日本の「棄兵・棄民」政策

第二次世界大戦も末期の1945年、イタリア、ドイツが相次いで降伏し、日本もまた太平洋戦争で連合国に対して劣勢に立たされていました。ドイツ降伏後、ソ連が極東に軍隊を大移動させていたことから、日本は、一方では対ソ戦争を準備しつつ、他方では、日ソ中立条約が1946年4月まで有効であったことから、ソ連を仲介とする終戦工作を模索しはじめました。

終戦工作の中で、日本は、最低限「国体の護持」さえ維持できればよいとして、ソ連に対して「賠償として一部の労力を提供することには同意する」との提案をするまでに至りました。その結果、終戦後、関東軍総司令部からソ連側に対し、「次は軍人の処置であります…満州にとどまって貴軍の経営に協力せしめ其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては極力貴軍の経営に協力する如く御使い願いたいと思います。」などという提案がなされることとなりました(「ワシレフスキー元帥に対する報告」)。日本は、「国体」すなわち天皇制維持のために、ソ連に対し、旧日本軍の軍人・軍属を労働力として提供したのです。これが日本による棄兵政策です。

また、ドイツ降伏後の対ソ戦争の準備の中で、関東軍は、旧満州のほぼ4分の3を放棄する計画を立て、極秘に準備を進めていました。そして、1945年8月8日、ソ連が宣戦布告し、旧満州地域に侵攻してくると、関東軍の大部分が旧満州大部分から満州南部・朝鮮北部に退却していったのです。他方で、旧満州地域に開拓団として植民していた180万人もの日本人に対しては、対ソ戦争が近いことを隠し続け、ソ連侵攻後も現地土着政策をとり続け、まさに、旧満州地域とそこに住む日本人居留民を、日本本国の防波堤としたのです。この棄民政策の結果、多くの日本人が、広大な満州を無防備で逃げ惑い、命を落とし、あるいは中国に残留して日本人孤児として戦後を生きなければならなくなりました。

このように、「国体」すなわち天皇制を維持するため、あるいは、日本本土へのソ連侵攻を阻止するために、日本政府が、旧日本軍兵士と旧満州居留民を見捨てたのが「棄兵・棄民」政策です。

そして、この棄兵政策は、まさに日本の国策として行われ、旧日本軍兵士の武装解除とソ連への引き渡しは、旧日本軍の指揮下で速やかに行われることとなりました。

ここから、シベリア抑留が始まることとなります。

シベリアでの過酷な抑留生活

第二次世界大戦後、63万人前後の旧日本軍兵士が、ソ連軍の指揮のもと、ソ連領内に移送され、シベリア、中央アジア、ヨーロッパロシア、極北・外モンゴルなどの約2000地点の捕虜収容所に分かれて抑留され、長期にわたって強制労働を強いられました。

シベリアは、零下数十度にもなる極寒の地です。それに加えて、極めて劣悪な条件のもとで抑留生活を送ることを余儀なくされ、過酷な強制労働を強いられたのです。ソ連軍が被抑留者に命じた作業は鉄道・運河・道路建設、森林伐採、炭坑作業という重労働が中心で、しかも、過酷なノルマが課されていました。そして、ノルマが達成できなかった場合には連帯責任を問われ、全員が、ただでさえごくわずかな量の食事をさらに減らされるという過酷な制裁を受けたのです。

被抑留者達は慢性的な飢餓状態の中で、過酷な強制労働に耐えていたのです。その結果、約4万6000人もの旧日本軍兵士が重度の労働障害を負い、約6万 8000人もの旧日本軍兵士が死亡することになりました。また、行方不明となった人も多数にのぼります。

遅れた帰還

ソ連による旧日本軍兵士の抑留は、上で述べたような非常に過酷なもので、人道上極めて問題だったばかりでなく、戦闘行為終結後、兵士を捕虜とする行為は、当時の国際法にも明確に違反するものでした。また、終戦時に受諾されたポツダム宣言の第9項では、「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」と定められており、日本国軍隊の武装解除と、軍人を各家庭へ復帰させる義務が課されていたのです。

しかし、日本政府は、シベリアに抑留されている旧日本軍兵士の解放と送還を積極的に求める施策をとることはなく、1946年12月、アメリカとソ連との間で日本人送還に関する協定が締結されて、ようやく被抑留者の引き揚げが開始されることとなったのです。その後も、遅々として進まない被抑留者の帰還について、日本政府は、帰還者の受け入れ業務を行うのみでした。

その結果、長い人では4年間にも及ぶ長期間の抑留生活を強いられることとなったのです。

「棄兵・棄民政策」の責任を問う

日本に帰還した被抑留者に対して、政府からの補償はありませんでした。

南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、政府から賃金が支払われているのに、ソ連に抑留された被抑留者らに対しては、政府は、いまだに賃金支払を拒み続けています。

そして、政府は、1988年に平和祈念事業特別基金を設立して、恩給欠格者、シベリアなどに強制的に抑留された方、引揚者等の関係者に対し慰藉の念を示す事業を行ってきましたが、それも、シベリア抑留者らに10万円の旅行券を配って解散することになりました。これにより、政府は、戦争を過去のものとし、補償問題を完全に終わらせようとしています。

しかし、過去、日本政府が「棄兵・棄民政策」をとり、原告ら旧日本軍兵士を、「国体護持」のためにソ連に引き渡したことは消えることのない事実です。司法を通じて、国の責任をきちんと認めさせることが、今まさに求められています。そして、そのことが、戦争を単に過去のものとせず、これからの平和のために活かしていくこととなります。

この訴訟を闘っていくためには、皆さんからの支援は欠かせません。未来の平和をつくるためにも、大きなご支援をお願いします。

事務所の弁護団所属弁護士:村井豊明、奥村一彦、大河原壽貴、秋山健司、佐野就平

シベリア抑留国家賠償請求訴訟第1回口頭弁論報告会

シベリア抑留国家賠償請求訴訟第1回口頭弁論報告会

シベリア抑留国家賠償請求訴訟第1回口頭弁論報告会

「まきえや」2008年春号